院長ストーリー

井坂接骨院ストーリー

 

 

私を五体満足に生んでくれた両親に感謝します

私がこうして人生を歩めるのは、両親が私を健康的に育ててくれたおかげだと思っています。

この仕事に就くことになったのはもちろん親の仕事を見て育ったことが大きいのですが

大学で薬の人体での代謝、運動機能の研究した事もきっかけとなりました。

 

  今は健康な私ですが、幼稚園まではよく熱を出したり、引きつけを起こしたり、気管支炎になったりして、

心配して母は毎日のように付きっきりで近くの医院に連れて行ったと言います。 

小学校に上がる前まで、父はまだ京都東寺さん近くの接骨院で務めており、家計を助けるため

母も夜遅くまで自分の実家の手伝いをしていて、ほとんど母方の祖父の家に行って過ごしていました。

 

 城陽市立今池小学校、西城陽中学校と進学

小学校の成績はごくごく普通、中学校はさらに下がって平均2.8ぐらい、

まあ何とか赤点はないものの本当に公立高校に行けるの?というぐらい勉強のできない落ちこぼれでした

それでもなんとか京都府立田辺高校に進学、

それからも高2までのんびり何とか赤点の無いレベルで過ごしていました。

 

転機は高校2年。

 私は一応進学組に入り、そこで優秀な友人や恩師である鈴木先生に引っ張られ中学の総復習からはじめ

高3には共通一次を受けるレベルまで猛勉強。残念ながら国立大学には合格しませんでしたが

滑り止めで受けていた北陸大学薬学部に進学することができました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

写真左端が私(↑23時頃大学の研究仲間と休憩時間。)

 

大学では、軟式テニス部に所属し、

そのころから同じクラブや友人のいる野球部で、

独学で勉強したけが人の手当てやテーピングなどをしていました。 

 

当時大学での試験は再テストを受ける人が9割だったので
一回目ですべて終わると2週間だ授業の無い試験休みが出来たのです。

 

2回生からは、すべての試験を1回目で終わった私は一人でよくあちこち
原付(カブ)で能登半島、富山や福井などをテントをもって旅しました。

 

(写真↓大学3年秋試験休みに原付カブで単独龍飛岬まで行った時)

 

 

そんな大学時代後半の2年間は、可愛がってくれた母方の祖父や父方

。祖母との別れの時期でもありました。

大学3回生の10月末、茨城に帰省する度いつも可愛がってくれた茨城の祖母が体調を崩し入院。

見舞いに行くと病床で「この病気が治る薬を作ってくれぺぇなぁ」「ばっちゃん作るから!」と約束。

しかし、あっけなく2ヶ月後の12月29日に他界。。。30日の葬式は霜柱の立つ寒い朝だったこと忘れません。

このばあちゃんとのその約束が果たせなかったこと、未だに悔しい思いです。

その時本気で大学院に進むか専門学校の試験を受けて柔道整復師への道に進むか悩みました、、、

 

そんな大学の卒業試験や薬剤師の国家試験の準備などめちゃめちゃ忙しい大学終了間際に

専門学校の入学試験を受け合格したのでした。(告白します、実は専門学校の入学試験の勉強は1秒もしていません)

それは4月2か3日に行われる薬剤師の国家試験の準備で手いっぱいだったからです。

(国試終了後も半年ぐらい、試験に遅れた夢をみて夜中に数度起きるほどだったので

今から考えるとよっぽどだったのでしょう。)

就職先も決まっていたのですが専門学校合格によりすべて辞退し
4月2日3日薬剤師の国試を受けすぐ後に専門学校の入学式というタイトな日程で
4月から専門学校に通い始めたのでした。

(←大学の卒業謝恩会にて)

 

 

 今は違うのですが当時国家試験は、必ず4月の2日3日と決まっていたのです。

合格発表は4月のゴールデンウィーク直前(もちろん薬剤師試験には1発合格。)

 

この年のGWに国試の結果が出てから茨城のばっちゃんの墓前で、「薬作れなくてごめん。。。」

ということを報告したのでした。

さらに、大学卒業した年の夏、子供時代いつも一緒だった母方の祖父が入院し、11月に他界。

別れは突然まとめて訪れるもんなんですね。泣!

 

 時は昭和から平成に変わる、いわゆるバブル時代

朝から丁稚修行先の京都西院の接骨院に行き、昼から吹田の明治鍼灸柔道整復専門学校に

夜の8時ごろまで通い自宅に帰るのは夜10時頃、柔整学校に通いながら接骨院での丁稚修行の

日々がスタートです。

 

当然丁稚の私は、皆が浮かれるバブルの波に乗ることもなく極貧生活の日々。

丁稚時代の給料5万から学校関係のお金を出したら月に手元に残るのは雀の涙、実家寝食は依存して

いましたがバブルでうかれようもありませんでした。

 

 丁稚先の京都の片川接骨院は、整形外科とのパイプも太く、ケガのエキスパートの先生の院でしたので、

現在ほとんどの先生が見たこともないような骨折や脱臼、捻挫の鑑別診断、治療など貴重な体験も数多くし、

ほねつぎの仕事の素晴らしさに触れることができました。



 

 

柔整国家試験1発合格の後も、京都の片川接骨院で素晴らしい
患者さんや先輩方の叱咤激励を受けながらさらに3年間貴重な
体験を積みながら修行しました。

この極貧時代があるから今頑張っていられるのだと思います。

さらに、院長の片川先生はこの仕事で1本立ちできるまで

導いていただいた恩師です、

感謝!「片川先生は2005年他界、ご冥福をお祈りいたします」

←下積時代接骨院の忘年会にて恩師片川先生と。

 

 

 

1999年二人目の子供ができたことを機に岩山から現在の立川に移転、宇治田原に根を下ろさせていただき、

「宇治田原がいつまでも新緑で賑わう山のように活気あふれる街」であって欲しいという思いから名前も

井坂バランス接骨院とあらためました。現在開業して25年になります。

 

「よくなれば 何したいかと やまわらふ」いつも来院していただいている方が

「よくなったら何がしたいですか?」と問いかける、当院の前向きな姿勢を俳句にして京都新聞文芸欄に

投稿され紙上に乗った俳句です。「やまわらふ」は当院が年4回発行している新聞の名前。

 

〜〜〜〜ちょっと脱線〜〜〜〜
治療や知識に自信を持ち始めたあるとき、飛び込みの患者さんに言われたとある言葉とは?

 

答:それは「電気屋」です。

 

知っておられるでしょうか?
「電気屋」とは電気治療をメインに治療している接骨院や整骨院を揶揄する言葉です。
最近では「マッサージ屋」というのもありますね。

 

 そして、そんなの事を絶対に言われない治療を模索しさらに勉強を始めたのです。
あの言葉を言ってくれた患者さん、今は誰だったか忘れましたが、その人の
おかげで今の師匠に出会えた訳ですからいくら感謝をしても足りないぐらいです。
〜〜〜〜〜〜〜〜感謝!〜〜〜〜〜〜〜

 

 「電気屋」の言葉が忘れられず

マッサージや電気治療をすることで治療するということに納得が行かなくなった私。
20年間様々な勉強会に出掛け数々の治療法の研究会に出席しました。
結果、
2009年にこれ以外は必要ないと思えた治療法、それが池上六朗先生の発案された「三軸修正法」なのです。

 

池上先生の話を聞くことで何より衝撃だったのはそんなに簡単に体が変わるの?

ということでした、そしてバランスがどれだけ重要であるかということ。

 

しかし、池上先生の話ではどのようにそれを生かすのか?が分かりませんでした。

(注:あくまで私はのお話です。出来る人はすぐ理解できるのでしょう。)

 

そんな時、三軸修正法の勉強会で師匠三明三宅先生のお話を聞く機会があり

毎月1回、土曜日に芦屋で勉強会をされていることを知りました。

 

当院は、当時から土曜の午後も診療していたので、土曜の午後お休みすることに抵抗はありましたが

つき動かされるものを感じ2010年春休診し研修に参加することを決断したのでした。

それから毎月一度たりとも欠席したことがありません

(皆様には診療時間がややこしくなりご迷惑をおかけいたしています。)

 

痛む場所を処理する前に、まず全身のバランスを調整することがいかに必要か、

その考えは今までの自分の知識をコペルニクス的に180度変えるインパクトでした。

それからずっと三軸修正法だけ治療の基本にしています。

 

 師匠「三宅先生」。その圧倒的な知識。

ゴットハンドの師匠の姿は遠くかすんで見えないのですが、これからも背中を追い続けます。

 

私の仕事は、自分では1mmも変えることのできないバランスをアドバイスし

調節することで、皆さまの健康に貢献することだと考えています、特に家事や子育てで

忙しい女性をバランスで応援できる地域ナンバー1の治療院を目指し、スタッフ一同

サービスの質の向上のため日々精進しております。

 

井坂バランス接骨院の自慢は『親切とチームワーク』です。

 

地元宇治田原に還元できるよう全力で皆様の体の声を聞きながら精進していきますので

どうぞ今後とも末永くご愛顧よろしくお願いします。

 

2020年夏にも感染対策をしながら、「機能姿勢に気づく」という講演もしました。

 

趣味は、読書(年間100冊以上を目標にしています、最近では読書時間が無くなってきました。)

バイク整備、スキー、海をボーっと眺めて釣りをすること。

2021.2.1